死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。——太宰治「葉」
Twitterで初めてこの一節を見かけた時、これほどまでに簡潔で、分かりやすく共感出来る文章があるものかとひどく感動したことを覚えている。
麻の着物は私にとってアイドルであり、バンドであり、旅行であり、その「現場」だった。
幸い、恵まれた人生を送っているので「死のうと思った」ことはなかったけれど、時々「生きたくない」時はある。そんな感情をいつも救ってくれたのが私にとっては「エンターテインメント」だった。
例えステージがなくても、ステージ上で見る自担を想像するだけで私の生きる意味はそこにあった。
2020年、その両方が私の生活からなくなった。
コロナ禍で軒並みライブは中止、ふらっと行けるフェスがあるわけでもなく、全てがオンライン。
何も無いよりはずっと恵まれているけれど、「麻の着物」にはなり得なかった。
そんな中で突然突きつけられた自担の脱退。
『悲しみ』だけが私の感情の全てになっていった。
彼を追いかけても、アイドルの彼とはもう二度と出会えない。3人に囲まれながら幸せそうに笑う彼を見ることはもう絶対に出来ない。
悲しかった。ただただ、苦しかった。
100%生身の「彼自身」を受け入れられなかった自分に対しても、こんな状況でも前を向かなきゃいけない風潮に対しても、全てが悲しかった。
突然生きる意味を、麻の着物を奪われてしまった私には、もう思い残すことはなかった。
それでも死ぬ勇気なんて微塵もなくて、ただ1日1日が過ぎていくのを眺めているのが精一杯だった。
きっと、彼のことを悪く言うことしか出来ない「元ファン」も、同じような気持ちなんだろうな、と少し同情した。
STORYの未完走で達成感もまるでない。
彼と別れる心の準備も全くない。
かといって、彼について行く覚悟もない。
縋るものが何も無い状態で平然と生きていくにはこの世界はあまりにも不安定で、苦しみを訴えることでしか自分を律するすべがない。
そんな人たちなのだろうと思う。
私はと言えば、好きだった人のことを嘆く気力もなければ切り替えて前に進むメンタルもない。
「新しい自担」を見つけてはみたものの、あっという間に怖くなってしまった。
もうこんな想いはしたくない。
こちらの勝手な期待をかけて、
勝手に裏切られたと思いたくない。
もう、生きていたくない。
そんな時だった。私に麻の着物が回ってきたのは。
少し前まで「自担」と称していた人のステージのチケットだった。
ああ、生きる意味が出来てしまったな、と思った。
こんな絶望の沼の底にいる人間に、プレミアチケットを持つ資格なんてあるんだろうか。
感情が死んでいる私が見に行くよりも、もっと好きな人、行きたい人に譲る方がいいんじゃないか。
色んなことを考えたけど、本心はやっぱり「行きたい」だった。
とにかく、その日が来るまでは、なんとか生きてみよう。その後のことは、それから考えよう。
たった1枚のチケットでそう思えた。
2020年に入って初めての「現場」を経験した。
オンラインライブ、オンラインファンミ、YouTube……色んな媒体でエンターテインメントを摂取して来たけれど、何十回見ても、何百回見ても、きっとこの1日…この1時間半に勝ることは絶対に出来ないのだと確信した。
「この人がいる限りは、この人を見ていたい」
そう思った。思ってしまった。
これからどんな世界を見せてくれるのか、どんな驚きを、感動を届けてくれるのか、見てみたくなってしまった。
あぁ、まんまと麻の着物に夏を教えられてしまったなぁ……と悔しくなった。
また来年の夏も、私はこの「麻の着物」を着続けるんだろう。
私にとって「行きたい」は「生きたい」なのだ。
本当の意味でどこにも行けなくなった時、もう私はいないのと同じことなんだろう。
アイドルに『生きる糧』を押し付けてしまうのはあまりにも自分本位で、時々申し訳なくなるけれど、
私はまた誰かを信じてみたいと思った。
どうか、1人でも多くの亡霊が、苦しみから抜け出せますように。悲しみの向こう側へ行けますように。
今はそう願ってやまない。