優しい人が好き。
例えば好きなタイプを聞かれた時、わたしはいつもそう答えて周りの人を消沈させる。
当たり前だ。優しい人が嫌いな人なんていない。こういう時の回答はもっとインパクトのあるものじゃないと、話題が広がらない。
でも「優しい」っていうのは、実はこの上なく難しいことなんじゃないかって、思う。
誰もが必要としているのに誰も本当の正解を知らない。
私の思う優しさの一つに「人のために行動できる」というものがある。
これが本当に難しい。
「自分のため」は簡単だ。自分が何を思い、何を求めているのか、簡単に分かる。深層心理の域までいってしまうと難しいけれど、表面上はどうしたいのか、何が欲しいのかが比較的簡単に分かる。
「人のため」は難しい。自分が求めているものと、人が求めているものは必ずしもイコールにはならないから。自分の「こうしてあげたい」と、相手の「こうしてほしい」は時々すれ違う。だからきっと「人の為」と書いて「偽」と読むんだろうな、と妙に納得した。
私たちが他人に与えられる優しさはあくまで、自分だったら嬉しいか。それに尽きる。もしくは、自分が認識している相手のイメージが正しければ嬉しいだろうな。という憶測。それがせめてもの限界だと思う。
そこを間違えて突き進む人に残念ながら「優しい」という表現は使われない。
「厚かましい」そう表現される。あまりいい言葉ではないと思う。
この「優しさ」と「厚かましさ」の間を私たちは行ったり来たりしている。人によっては優しいと感じるし、関係性や価値観によっては厚かましいと感じることもある。
「優しい」はこんなにも難しい。
執拗に相手に踏み込み切らずに、そっと必要なことだけ手を差し伸べられる人。
そういう人が私の思う「優しい人」なのだ。
「自分だったら嬉しい」を相手に押し付け過ぎずに生きられる人を私は尊敬している。
「行きつけの美容室を教えて欲しい」と連絡してきた後輩に対して「長々とラリーをさせるのは忍びないから」と予約まで先回りしておくとか、
舞台の稽古でスケジュールが埋まっている後輩がコンタクトを切らして困っていたら、お店が空いている時間に取りに行って稽古が終わったタイミングで届けたりするとか、
一歩間違えれば「厚かましいお節介」になりそうなことを息をするようにしている人たちがいる。
彼らの行動に下心を感じないのは、私の個人的な主観なのかもしれない。
でも、私にはきっとできないことだから、彼らの行動力と思いやりには頭が上がらなくなってしまう。
「人の為になるから」じゃなくて「人の為に『自分が』やりたいから」。
「優しいから」じゃなくて「それが普通だから」。
そう言えてしまう人のことを私は「優しい人」と呼んでいる。
私が恋に落ちるのは、多分そういう人だと知ってしまった時だ。
そんなこと、初対面の人にはとても言えないけれど。